東京国際映画祭公式インタビュー 2024年10月30日
コンペティション
『英国人の手紙』
パウロ・ブランコ (プロデューサー・左)、セルジオ・グラシアーノ (監督・右)、ジョアン・ペドロ・ヴァス (俳優/ルイ・ドゥアルテ役・中央)
アンゴラに帰化したポルトガルの詩人、ルイ・ドゥアルテ・カルヴァーリョは付き人の黒人トリンダーデとともにナミブ砂漠を転々としながら、自身の父親にまつわる文書を探している。ある日、彼は父親を知ると話す人物から「英国人の手紙」の存在を聞かされ、入手するべく奔走する…。
数々の才能を世に送り出してきた名プロデューサー、パウロ・ブランコ(1950~)が念願の企画を実現させた一作。親交のあった詩人にオマージュを捧げるべく、作家のジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザを脚本家に、アンゴラに2年間滞在した経験をもつセルジオ・グラシアーノを監督にそれぞれ起用し、詩人のさまざまなテキストを精妙に織り交ぜた砂漠の物語となっている。
ワールド・プレミア上映に駆けつけてくれた3人のお話は、知的で理路整然としており、どこを端折るのも勿体ない。その結果、この公式インタビュー記事はやや長めのボリュームとなってしまったが、作品自体、詩や散文を寄せ木細工のように詰め込んだ言葉のタペストリーという様相を帯びていることから、それに免じて、ここに長文を掲載することをお許しいただきたい。
──パウロさん、あなたのようなレジェンドを映画祭にお迎えできて光栄です。本作は、あなたと映画に描かれる詩人、ルイ・ドゥアルテ・カルヴァーリョの友情から生まれた作品と伺っております。そのあたりの話をまずお聞かせください。
パウロ・ブランコ(以下、ブランコ):1971年、私はロンドンでルイ・ドゥアルテと知り合いました。若い時分に友情を築いて、彼が2010年にこの世を去るまで付き合いがありました。知り合ってから彼は徐々に作家として知られるようになり、また、オリジナリティ溢れる映像作家としても活躍しました。
1977年に彼がアンゴラの遊牧民を捉えたドキュメンタリー・シリーズを撮った際、私はパリのシネマテークで上映会を催しました。これはセルジュ・ダネーに声をかけて、カイエ・デュ・シネマ主催で開いたものです。その後、 彼はますますポルトガル語作家として有名になっていきましたが、それでも軸足をアンゴラに置いて、アンゴラ国民であるという意識を強く持っていました。アンゴラと自らの関係について書くことをライフワークにしていたのです。
私はルイ・ドゥアルテが人生の最後に執筆した「プロスペローの子供たち」3部作を、彼へのオマージュとしてぜひとも映画化したくなり、数年前に企画を立ち上げ、今回ようやく実現に漕ぎ着けました。原作の精神に則り、アンゴラで撮影した作品としたのです。
──脚本を書いたポルトガル系アンゴラ人の小説家、ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザの著作は、「忘却についての一般論」「過去を売る男」の2冊が翻訳されていますが、カルヴァーリョは日本でまだ一度も紹介されたことがないようです。ポルトガルとアンゴラでどういう評価を獲得している詩人なのでしょう。
ブランコ:ルイ・ドゥアルテは、アンゴラで最も重要な作家と見なされています。アグアルーザも今日ではよく知られた作家ですが、彼もまたルイ・ドゥアルテがアンゴラでいちばん重要な作家であることを認めています。ふたりの間には当然親交があったと思います。
ルイ・ドゥアルテは晩年を砂漠で過ごし、著作物の多くが絶版になっていたこともあり、ずっと忘れ去られていました。しかし今回、映画が作られたことがきっかけで著作物の再版も決まったので、今後は若い世代に読み継がれていくことを期待しています。キャリアを戦略的に構築していくタイプの作家ではなかったので、彼の詩や文学は海外でほとんど知られていないのですが、同じポルトガル語圏のブラジルでは当然知られています。
──詩人の功績を伝えるならドキュメンタリーにする方法もあったはずですが、詩人を主人公にしてフィクションとして構築されています。
ブランコ:砂漠やムクバル族、ポルトガルの植民地とか内戦のことを書いても自らの思考が色濃く作品に反映されている。ルイ・デゥアルテはそういう作家です。オマージュを捧げるなら、自らを作品の中に据え置く彼の筆法に則って、映画を構築するのが筋に適うため、フィクションにしたのです。
──詩や散文の一節がモノローグで読み上げられるなか、詩人の人生が浮かび上がります。言葉数の多い作品ですから、映像化は難しかったのでは?
セルジオ・グラシアーノ(以下、グラシアーノ監督):確かにこれは非常にチャレンジングな課題でした。この作品はカルヴァーリョの晩年の3部作のうちの1作目に基づいていて、 それは2作目3作目とはまるで違う、詩のように内省的な作品です。ですからその世界観をスクリーンに移植するというのは、かなり大変なことでした。
原作を読んで、「一体これをどう映画化するんだ」と思いましたが、アグアルーザの脚本が見事にその難問を解決してくれて、パウロが私に突きつけた挑戦状を受けない手はないと思いました。
──監督の作品は『絶海9000m』(17)が日本で紹介されたくらいです。初めてアート系の作品を手がけたのですか。
グラシアーノ監督:おっしゃる通り、これは旧作とはかなり毛色の違う作品です。どちらがいい悪いという判断は自分の中にはありませんが…。パウロから声がかかってノーと言えるわけがない。それで本作に挑戦しましたが、僕としてはひたすら詩の世界観を反映させながら砂漠を撮る、根を詰めた作業となりました。
──全編砂漠のロケです。撮影は難航したのでは?
グラシアーノ監督:砂漠はやはり大変でした。光の加減が激しく変わり、すごく風が吹く時もあれば寒くなる時もありましたから。5時以降、砂漠にいるのは危険とされていますが、われわれは毎朝7時から8時のうちに撮影を始め、夜遅い時は8時頃まで撮影を続けました。道も目印もないため、時に自分たちの居場所がわからなくなる時もありましたが、砂漠はふだんとても平和で心を落ち着かせてくれます。ずっといると内省的な気持ちに自ずからなるのです。
──ジョアン・ペドロさんは役を演じているのではなく、詩人の存在そのものを体現しているように思えます。役作りにはどんな苦労をされたのでしょう。
ジョアン・ペドロ・ヴァス(以下、ヴァス):ルイ・ドゥアルテの作品は、作中に自らをキャラクターに据える半自伝的なフィクションで、作品によってその度合いは異なるものの、どれも自分の視点から周囲を観察しているような書き方をしています。私は彼の散文による著作を全部読み、詩集も読んで、また映画に関して講演した彼の映像記録なども見て、役作りをしていきました。
非常にユニークな言葉遣いをする人で、映画的な、あるいは哲学的であったり心理学的であったりするメタファーを駆使して自分と砂漠との関わりを書いていますので、私はそうした口吻をすべて表現できるように訓練しました。また、彼は友人と手紙でやりとりする習慣も持っていましたから、ルイ・ドゥアルテに向けて手紙を書く作業も行いました。
──そこまでして詩人の特徴を体に叩き込んでいったのですね。
ヴァス:その上で撮影中はずっと現場に居てほしいと監督に言われ、 映画中盤のセヴェロのパートに自分の出番はほぼなかったけれど、出演する俳優の演技をずっと遠巻きに見ていました(笑)。
──砂漠で演じるのは、ふだん演技をするのと違うものですか?
ヴァス:先程、監督もお話されていましたが、風のない穏やかな日の砂漠は静寂がすごいんです。静寂にやられると言いますか…。砂漠に身を置くと、人は自分の内側を観るしかなくなる。自ずと静かな気持ちになるものです。ですから詩人の著作に触れ、砂漠と対峙したことが、演技を磨く手立てになりました。
──映画は、カルヴァーリョがトリンダーデ、 セヴェロ、カルテルという3人の主要人物と出会うなか、ポルトガルの支配を経て、独立後25年にわたるアンゴラの歴史が浮き彫りになる構成を採っています。彼らとの出会いを通して、アンゴラとポルトガルの複雑な関係が語られます。
ブランコ:アンゴラが独立して、70万人のポルトガル人が故国へ引き揚げたのですが、彼らはアンゴラと強固な関係を築いているから、植民地時代への郷愁を根強く持っています。その思いは実に様々で、ただ懐かしい人もいれば、そもそもアンゴラを引き揚げるべきではなかったという人もおり、ポルトガルとアンゴラの関係は矛盾に満ちている。この映画は見事にこのことを描いていると思います。
グラシアーノ監督:ポルトガル領アンゴラにいたポルトガル人の95%が国へ引き揚げました。本作の面白さは、引き揚げなかったわずか一握りのポルトガル人を描いているところにあるのです。
──パウロさんはラウル・ルイス、ヴィム・ヴェンダース、マノエル・ド・オリヴェイラなど、日本でも名の知られている監督の作品を多数手掛けておられます。大変多くの才能を見出してきましたけれども、これまでのキャリアでとりわけ思い出に残っている作品は何でしょう?
ブランコ:思い出を語り出したらきりがありません。実にさまざまな天才たち──オリヴェイラやルイス、シャンタル・アケルマン、アンジェイ・ズラウスキー、ジョアン・セーザル・モンテイロらが私に賜り物を与えてくれました。それがいまの私を形成しています。彼らのような巨匠の作品を製作できたのは、私の誇りです。
インタビュー/構成:赤塚成人(四月社)