©2024 TIFF
ジェフリー・ラム監督(前列右から2番目)、アントニオ・タム監督(前列右)、ジョージ・アウさん(俳優・前列左から2番目)、シーナ・チャンさん(俳優・後列左から2番目)、サマー・チャンさん(俳優・後列左)とスタッフの皆さん
10/31(木)アジアの未来『赦されぬ罪』上映後、ジェフリー・ラムさん(監督)、アントニオ・タムさん(監督/脚本)、ジョージ・アウさん(俳優)、シーナ・チャンさん(俳優)、サマー・チャンさん(俳優)をお迎えし、Q&Aが行われました。
ジェフリー・ラムさん(以下、ジェフリーさん):皆様こんばんは、私はジェフリー・ラムと申します。この映画の監督の一人でございます。今日はたいへん嬉しく思います。実は、皆さんと同じで、私も、今日初めてこの作品を観ました。ワールドプレミアということで、皆様わざわざ観てくださって本当にありがとうございました。
アントニオ・タムさん(以下、アントニオさん):(日本語で)こんばんは、私はアントニオです。
この場をお借りして、特に香港からわざわざこの映画を観に来てくださった皆様にも、ありがとうございますと言いたいです。そして、この映画をサポートしてくださった皆様もありがとうございます。
ジョージ・アウさん:(日本語で)おはよう。(当日は22時にQAが行われました。)私はロックを演じたジョージです。本当にお会いできてたいへん嬉しいです。
シーナ・チャンさん:こんにちは。(日本語で)私はシーナです。
わざわざ観に来てくださってありがとうございました。私も完成したバージョンを初めて今ここで観たのですが、思わず涙を流して本当に感動していました。皆様もこの映画を観て何らかの形で感動を覚えたのではないかと思います。
サマー・チャンさん:(日本語で)はじめまして、サマー・チャンです。東京国際映画祭に来ることができ、とても嬉しく思います。また、お会いできて大変光栄です。ありがとうございます。
司会:阿部久瑠美(鎌倉市川喜多映画記念館 学芸員):最初に、私からお二人の監督に、ひとつ質問をしてから始めたいと思います。
今回の映画は「罪」と「赦し」という普遍的なテーマに今日的な問題も絡ませながら描いていたと思いますが、この作品はどの様な所から発想されて、お二人で組み立てられていったのか、そこからお伺いできますか。
ジェフリーさん:この映画のきっかけなのですが、実は最初はアントニオが色んな事を考えて脚本を書いたので、彼のほうから先にお話ししていただきましょう。
アントニオさん:私はアントニオです。この映画の監督、そして脚本も務めました。みなさん、(私の)見た目は幼いと思かもしれませんが、実際本当に若いんですよ(笑)。
この脚本は、大学を卒業したばかりの時に、宿題として提出したものでした。脚本を書いたときに私が何を探求してみたかったか、つまり映画のテーマそのものについて話すと、よく憎しみ・恨みというのは良くない、あるいは赦し合うのが良いことだと、よく言われます。当時の香港には、(社会情勢もあり)怒りを持っている人が非常に多かったので、そうしたとき、たいてい周りの人は「これは赦したほうが良いですよ、寛容に受け入れた方が良いですよ」と言うんです。
私自身はクリスチャンで、幼い時にずっと教会に通っていましたが、牧師さんが説教するときには、「愛とは何か」、「憎しみと何か」、「恨みとは何か」という話をよくしてくれました。ただ、当時はこうした話は全く頭に入ってこず、あまり気にもしていなかったんですが、脚本を書くようになって、愛、憎しみ、恨みというものを探求しようと思うようになり、こうしたテーマの描き方について、美しく描いた方が良いのかそれとも悪夢の様に描いた方が良いのかあれこれ悩んだ末、この脚本を書きました。
実際脚本を書くときには、どのように書いた方が良いか。衝撃的なテーマのなかで、何を表現すると良いのかというのを考えました。そこで、神様は愛を語り、人間は非常に罪深いというように対照的に描けば、見応えのあるドラマになるのではないかと思いました。また、物語の中では、「赦してはいけない人を赦さなければいけない」という矛盾した気持ちに、牧師がどう立ち向かうのか、向き合うのかということを書くことで、きっと面白くなると思いました。牧師の赦すべき人は、自分の娘を傷つけた相手です。牧師である以前に、父親としてはこの事実をどう受け入れるのか。
そこで、私は色々な父親に対してインタビューをし、調査しました。内容は「娘がもしも殺された場合と、娘がもしも強姦された場合、お父さんはどちらの方が深刻な状況だと思いますか」と。皆さん「殺されるということは当然最も悲しいことだ」と仰った一方で、「強姦されてしまったとしたら、その事実もまた受け入れられない」という回答も非常に多かったです。
そうした回答から、こうした、当事者やその家族にとって痛みが大きく、到底受け入れられないような状況下で、赦すか赦さないのかを問うことが意味を持つと思いました。
そして、物語の設定として、罪を犯した若者は自分の罪を認めており、贖罪したいと思っていることにし、牧師との人物の対立、緊張関係というものを描こうと思いました。
ジェフリーさん:アントニオがまず学生の時に(演藝學院で)勉強していた際にこの脚本を書いたのですが、宿題として提出したところ、先生が非常に高く評価をしてくれました。ただ卒業したばかりなので今まで映画を撮ったこともなければ、良い脚本があってもなかなか資金が集まらない訳です。そこで私の登場、出番です。私は彼よりは若干年上なんですよ(笑)。以前ショートフィルムも撮ったことがあり、テーマは宗教・人間性・衝突といった話を中心にたくさん撮っていました。
そして、実は、私の父親も牧師なんです。私も小学生の時からずっと教会に通っていたこともあり、先生が「君も加わって、皆で資金集めを頑張りましょうね」と仰ったので、自分も参加することになりました。
私も脚本を観て、これを映画化する時には何がポイントになるのか、どのように映画化したら面白いのかと考えた点は、登場人物が置かれている立場がそれぞれ異なっていることの面白さです。たとえば、牧師さんという肩書を見ると、一般的にはとても良い人に思えますが、という役どころです。一方、ジョージさん演じる、罪を犯したことのある若者は、見た目はすごく好青年で大人しく見えます。
このように、人物を対比しながら描くと非常に面白くなるのかなと思いました。
このようなジャンルという観点から観ても、この物語は非常に面白いと思いました。この脚本の非常にユニークなところは、大人しい若者に対するある種の復讐劇であるところです。
登場人物の関係性について、アントニオの脚本の書き方はすごく面白いなと。つまり、真逆の角度からこの2人の人物を書くという試みで、そうした意味でユニークだと思いました。
最後に、なぜこの映画を撮りたかったかという最も重要な理由の一つについてお話しすると、この映画は決して社会問題を描くことを目的にしている作品ではありません。先ほどアントニオも言っていましたが、当時、香港の社会で、人々はとにかく怒っている雰囲気がありました。そうしたなかで、こうした物語として描くことで、当時の社会状況や人々の抱いている気持ちそのものを表現することができるだろうと思いました。
──Q:作品のテーマ自体が信仰を扱っているものである一方で、残酷なシーンもありました。こうした役を演じるにあたって、どのような気持ちで臨んでいたのかをお伺いしたいです。
ジョージ・アウさん:(日本語で)ありがとう。
当初この役作りに関して私も一生懸命考えていたのですが、正直たいへん混乱した状態に陥った気がしました。気持ち的にも、この役柄をどう演じたら良いのかと混乱したまま撮影に臨みました。
特に相手を傷つける場面を撮影した時には、どう演じたら良いのか悩みました。きっとこの人物は、人生において、何の目標も目的もないだろうとは思いましたが、とにかく何も考えることができず、実は混乱の状態のままであの場面を撮ってしまったんです。
罪を犯したあと刑務所に入れられるのですが、出てきてからもやはり同じ様に、どう生きていくのかという目標は、はっきりとしないと思います。ただ、牧師さんの所に訪ねてきて、とにかく赦されたい、あるいは愛されたい、と思っていたのだと考えていました。私にとっては、この男の子は愛に飢えている若者なのだと思い、演じていました。
シーナ・チャンさん:(日本語で)ありがとうございます。
私が傷つけられるシーンを撮るときには、非常に混乱していたとジョージが言っていましたが、私の場合も同じでした。私の役は被害を受ける方なのですが、役者としてこうした被害を経験したことが無かったので、どのような気持ちでどう演じるのか、正直すごく理解し難かったです。
そこで、役作りにあたっては、性虐待された人たちが書いた記事や文章を読みました。彼女たちが書いた文字の行間に私が感じたのは、非常に心が痛めつけられ、とても苦しいという気持ちでした。実際に撮影の時にはやはり混乱していて、どのような気持ちで、どのような表情で演じれば良いのか分かりませんでした。
混乱したまま本番に入り、階段で押し倒されると、石でできた階段が非常に冷たく感じ、反対に、加害者となる相手からは、ある種のエネルギーみたいなものを強く感じました。
役者としては、気持ち的にはなかなか理解できないけれども、それでもこの役を演じきらなければならない、そうした気持ちでこの場面に臨みました。
サマー・チャンさん:ご質問ありがとうございます。
映画の中で私の出演するシーンはそれほど多くありませんでしたが、演じる時には色々なことを考えていました。たとえば、道徳とはどういうものなのか、自分が道徳をどう思っているのかとか、そうしたことを色々と考えました。
脚本に関しては、全体を読み、この脚本・この映画が探求しようとしている問題のなかでは、やはり宗教の占める割合が非常に多く、重点になっている部分だと私も思いました。
例えば、神様を信じていて、神様から「これは善い行いだからやりなさい」と言われたときに、本当にそれが善い行いだと信じてやるべきなのか。
つまり、宗教の問題とは、道徳の問題と色々と密接な関係があり、非常に複雑なのです。
色々な出来後の過程を観ていっても、こうした複雑な関係性が非常に良く分かると思います。
なので、私はこの役を演じるにあたっては、自分の芝居は少ないですが、他の皆さんがこの人間関係をどのように演じているのかに非常に興味があり、この映画への出演を通して、宗教とは何か、あるいは哲学とは何かなど色々な事を学びました。
私にとってはとても良い経験でした。
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ジェフリー・ラム監督(前列右から2番目)、アントニオ・タム監督(前列右)、ジョージ・アウさん(俳優・前列左から2番目)、シーナ・チャンさん(俳優・後列左から2番目)、サマー・チャンさん(俳優・後列左)とスタッフの皆さん
10/31(木)アジアの未来『赦されぬ罪』上映後、ジェフリー・ラムさん(監督)、アントニオ・タムさん(監督/脚本)、ジョージ・アウさん(俳優)、シーナ・チャンさん(俳優)、サマー・チャンさん(俳優)をお迎えし、Q&Aが行われました。
ジェフリー・ラムさん(以下、ジェフリーさん):皆様こんばんは、私はジェフリー・ラムと申します。この映画の監督の一人でございます。今日はたいへん嬉しく思います。実は、皆さんと同じで、私も、今日初めてこの作品を観ました。ワールドプレミアということで、皆様わざわざ観てくださって本当にありがとうございました。
アントニオ・タムさん(以下、アントニオさん):(日本語で)こんばんは、私はアントニオです。
この場をお借りして、特に香港からわざわざこの映画を観に来てくださった皆様にも、ありがとうございますと言いたいです。そして、この映画をサポートしてくださった皆様もありがとうございます。
ジョージ・アウさん:(日本語で)おはよう。(当日は22時にQAが行われました。)私はロックを演じたジョージです。本当にお会いできてたいへん嬉しいです。
シーナ・チャンさん:こんにちは。(日本語で)私はシーナです。
わざわざ観に来てくださってありがとうございました。私も完成したバージョンを初めて今ここで観たのですが、思わず涙を流して本当に感動していました。皆様もこの映画を観て何らかの形で感動を覚えたのではないかと思います。
サマー・チャンさん:(日本語で)はじめまして、サマー・チャンです。東京国際映画祭に来ることができ、とても嬉しく思います。また、お会いできて大変光栄です。ありがとうございます。
司会:阿部久瑠美(鎌倉市川喜多映画記念館 学芸員):最初に、私からお二人の監督に、ひとつ質問をしてから始めたいと思います。
今回の映画は「罪」と「赦し」という普遍的なテーマに今日的な問題も絡ませながら描いていたと思いますが、この作品はどの様な所から発想されて、お二人で組み立てられていったのか、そこからお伺いできますか。
ジェフリーさん:この映画のきっかけなのですが、実は最初はアントニオが色んな事を考えて脚本を書いたので、彼のほうから先にお話ししていただきましょう。
アントニオさん:私はアントニオです。この映画の監督、そして脚本も務めました。みなさん、(私の)見た目は幼いと思かもしれませんが、実際本当に若いんですよ(笑)。
この脚本は、大学を卒業したばかりの時に、宿題として提出したものでした。脚本を書いたときに私が何を探求してみたかったか、つまり映画のテーマそのものについて話すと、よく憎しみ・恨みというのは良くない、あるいは赦し合うのが良いことだと、よく言われます。当時の香港には、(社会情勢もあり)怒りを持っている人が非常に多かったので、そうしたとき、たいてい周りの人は「これは赦したほうが良いですよ、寛容に受け入れた方が良いですよ」と言うんです。
私自身はクリスチャンで、幼い時にずっと教会に通っていましたが、牧師さんが説教するときには、「愛とは何か」、「憎しみと何か」、「恨みとは何か」という話をよくしてくれました。ただ、当時はこうした話は全く頭に入ってこず、あまり気にもしていなかったんですが、脚本を書くようになって、愛、憎しみ、恨みというものを探求しようと思うようになり、こうしたテーマの描き方について、美しく描いた方が良いのかそれとも悪夢の様に描いた方が良いのかあれこれ悩んだ末、この脚本を書きました。
実際脚本を書くときには、どのように書いた方が良いか。衝撃的なテーマのなかで、何を表現すると良いのかというのを考えました。そこで、神様は愛を語り、人間は非常に罪深いというように対照的に描けば、見応えのあるドラマになるのではないかと思いました。また、物語の中では、「赦してはいけない人を赦さなければいけない」という矛盾した気持ちに、牧師がどう立ち向かうのか、向き合うのかということを書くことで、きっと面白くなると思いました。牧師の赦すべき人は、自分の娘を傷つけた相手です。牧師である以前に、父親としてはこの事実をどう受け入れるのか。
そこで、私は色々な父親に対してインタビューをし、調査しました。内容は「娘がもしも殺された場合と、娘がもしも強姦された場合、お父さんはどちらの方が深刻な状況だと思いますか」と。皆さん「殺されるということは当然最も悲しいことだ」と仰った一方で、「強姦されてしまったとしたら、その事実もまた受け入れられない」という回答も非常に多かったです。
そうした回答から、こうした、当事者やその家族にとって痛みが大きく、到底受け入れられないような状況下で、赦すか赦さないのかを問うことが意味を持つと思いました。
そして、物語の設定として、罪を犯した若者は自分の罪を認めており、贖罪したいと思っていることにし、牧師との人物の対立、緊張関係というものを描こうと思いました。
ジェフリーさん:アントニオがまず学生の時に(演藝學院で)勉強していた際にこの脚本を書いたのですが、宿題として提出したところ、先生が非常に高く評価をしてくれました。ただ卒業したばかりなので今まで映画を撮ったこともなければ、良い脚本があってもなかなか資金が集まらない訳です。そこで私の登場、出番です。私は彼よりは若干年上なんですよ(笑)。以前ショートフィルムも撮ったことがあり、テーマは宗教・人間性・衝突といった話を中心にたくさん撮っていました。
そして、実は、私の父親も牧師なんです。私も小学生の時からずっと教会に通っていたこともあり、先生が「君も加わって、皆で資金集めを頑張りましょうね」と仰ったので、自分も参加することになりました。
私も脚本を観て、これを映画化する時には何がポイントになるのか、どのように映画化したら面白いのかと考えた点は、登場人物が置かれている立場がそれぞれ異なっていることの面白さです。たとえば、牧師さんという肩書を見ると、一般的にはとても良い人に思えますが、という役どころです。一方、ジョージさん演じる、罪を犯したことのある若者は、見た目はすごく好青年で大人しく見えます。
このように、人物を対比しながら描くと非常に面白くなるのかなと思いました。
このようなジャンルという観点から観ても、この物語は非常に面白いと思いました。この脚本の非常にユニークなところは、大人しい若者に対するある種の復讐劇であるところです。
登場人物の関係性について、アントニオの脚本の書き方はすごく面白いなと。つまり、真逆の角度からこの2人の人物を書くという試みで、そうした意味でユニークだと思いました。
最後に、なぜこの映画を撮りたかったかという最も重要な理由の一つについてお話しすると、この映画は決して社会問題を描くことを目的にしている作品ではありません。先ほどアントニオも言っていましたが、当時、香港の社会で、人々はとにかく怒っている雰囲気がありました。そうしたなかで、こうした物語として描くことで、当時の社会状況や人々の抱いている気持ちそのものを表現することができるだろうと思いました。
──Q:作品のテーマ自体が信仰を扱っているものである一方で、残酷なシーンもありました。こうした役を演じるにあたって、どのような気持ちで臨んでいたのかをお伺いしたいです。
ジョージ・アウさん:(日本語で)ありがとう。
当初この役作りに関して私も一生懸命考えていたのですが、正直たいへん混乱した状態に陥った気がしました。気持ち的にも、この役柄をどう演じたら良いのかと混乱したまま撮影に臨みました。
特に相手を傷つける場面を撮影した時には、どう演じたら良いのか悩みました。きっとこの人物は、人生において、何の目標も目的もないだろうとは思いましたが、とにかく何も考えることができず、実は混乱の状態のままであの場面を撮ってしまったんです。
罪を犯したあと刑務所に入れられるのですが、出てきてからもやはり同じ様に、どう生きていくのかという目標は、はっきりとしないと思います。ただ、牧師さんの所に訪ねてきて、とにかく赦されたい、あるいは愛されたい、と思っていたのだと考えていました。私にとっては、この男の子は愛に飢えている若者なのだと思い、演じていました。
シーナ・チャンさん:(日本語で)ありがとうございます。
私が傷つけられるシーンを撮るときには、非常に混乱していたとジョージが言っていましたが、私の場合も同じでした。私の役は被害を受ける方なのですが、役者としてこうした被害を経験したことが無かったので、どのような気持ちでどう演じるのか、正直すごく理解し難かったです。
そこで、役作りにあたっては、性虐待された人たちが書いた記事や文章を読みました。彼女たちが書いた文字の行間に私が感じたのは、非常に心が痛めつけられ、とても苦しいという気持ちでした。実際に撮影の時にはやはり混乱していて、どのような気持ちで、どのような表情で演じれば良いのか分かりませんでした。
混乱したまま本番に入り、階段で押し倒されると、石でできた階段が非常に冷たく感じ、反対に、加害者となる相手からは、ある種のエネルギーみたいなものを強く感じました。
役者としては、気持ち的にはなかなか理解できないけれども、それでもこの役を演じきらなければならない、そうした気持ちでこの場面に臨みました。
サマー・チャンさん:ご質問ありがとうございます。
映画の中で私の出演するシーンはそれほど多くありませんでしたが、演じる時には色々なことを考えていました。たとえば、道徳とはどういうものなのか、自分が道徳をどう思っているのかとか、そうしたことを色々と考えました。
脚本に関しては、全体を読み、この脚本・この映画が探求しようとしている問題のなかでは、やはり宗教の占める割合が非常に多く、重点になっている部分だと私も思いました。
例えば、神様を信じていて、神様から「これは善い行いだからやりなさい」と言われたときに、本当にそれが善い行いだと信じてやるべきなのか。
つまり、宗教の問題とは、道徳の問題と色々と密接な関係があり、非常に複雑なのです。
色々な出来後の過程を観ていっても、こうした複雑な関係性が非常に良く分かると思います。
なので、私はこの役を演じるにあたっては、自分の芝居は少ないですが、他の皆さんがこの人間関係をどのように演じているのかに非常に興味があり、この映画への出演を通して、宗教とは何か、あるいは哲学とは何かなど色々な事を学びました。
私にとってはとても良い経験でした。